『扶ける』という字について。
主に、赤狼の小説において、『助ける』ではなく『扶ける』を多用しています。
私のイメージとして『助ける』には、『できないから助ける』という意味が大きいように思うからです。
重たい鞄を持つことができなさそうだから助けて上げる(持ってあげる)。歩くことが出来なさそうだから助けてあげる(支えてあげる)。背が届かないから助けてあげる(高いところのものを取って上げる)。。
そんな感じです。。
あくまでも『できない部分を補助する』それが『助ける』のイメージです。。
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『扶ける』をわざわざ使うのは、『できないこと』を補助するのではなく、『できること』をもっと補助する、意味で使っているからです。。
夕羅は自分で戦争ができます。書も書けます。馬にも乗れます。歩兵も騎兵も指揮できます。折衝もできます。法律だって作れます。。
けれど、体は一つしかありません。時間は24時間しかありません。
だから、『扶ける』のです。。
侍衣牙やラキシタは騎兵を指揮することを扶け、京守は折衝で扶け、史留暉は兵車軍団で扶け、ナール・サスは法律などで扶ける。。
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彼らが補助してくれるから、夕羅は軍略や政略にもっと頭を使うことができます。
お母さんは皿洗いができますが、それを娘がすれば、お母さんは時間が空くので、もっと美味しい料理を作ってくれるかもしれません。もっと家を綺麗にしてくれるかもしれません。もっと優しくなってくれるかもしれません。
『できる人』の時間が足りないから、補助する。その意味で使う『たすける』に『扶ける』を使っています。
だから、今、自分に命の危機が迫っているからたすけてほしい。その時は『助ける』を使います。
史留暉の冴月2を書いていて偶然できた(偶然?)『大を支え、大に扶くる』という諺も、そういう意味です。
できないから補助するのではなく、できる人を、自分のできる限りの力でもっと補助する。
がんばるお父さんの、ちょっと手が足りない部分を息子が補助すれば、お父さんはもっとがんばれます。
『大を扶け、大に扶くる』という言葉は、本当に偶然、というか。あの下りを書いていて、自然に出てきた言葉でした。
ナール・サスに説明させたら、なんか意味が通ってしまったので、そのまま本にしました(笑)
『くれない族』というのが一昔前にはやりました。
自分のことを分かって『くれない』。
自分のしたいことを理解して『くれない』。
つまりは、自分が活躍できないのは、自分を理解しない社会のせい。そんな我が儘な考え方です。
自分の利益が社会に貢献するものであれば、利己的でもかまわないでしょうが、そうでない場合の利己主義は、たんなる我が儘です。
社会に護られたいのならば、社会の規範をまず遂行する。
自由を謳歌するためにはまず義務を履行する。
自由だけ叫ぶのは、問題外、です。
良く小説でも書くのですが、
『アメリカは自由の国だが、自分の命さえ、他人の自由にできる』と。
自分が自由を唱えたとき、他人の自由が阻害される場合があります。その場合、他人も自由を唱えれば、自分の自由は阻害されます。
それがたんに「やりにくい」ぐらいなら良いですが、自分がいることが相手の邪魔になるとき、殺される可能性があるわけです。
『自由』を叫ぶ人は、その可能性を考えて行動しなければなりません。
自分が自由にすることは権利だ、などと思って簡単に行動して、他人の自由を阻害した場合。当然、他人も自分の自由を謳歌してあなたの自由を阻害します。
他人にも自由があることを前提にして、自分の自由を謳歌する場合、他人の自由を阻害することはあまりなく、他人も自分の自由を阻害して来ることは少なくなります。
史留暉が自分で欲しがる自由はただ一つ。
『剣を奮いたい』それだけです。剣士である自分、さえ冒されないのであれば、他はなんでも良いわけです。
兄が生きていたときは、兄の補助を、父が生きていたときは父の補助を。とにかく目上の者に従い、それを支えることを自分の使命として生きてきました。
だからこそ、父も兄も彼を大事に思い、史留暉の邪魔になるものは排除してきたのです。
『大を支え、大に扶くる』これは、そういう意味です。
まず自分が、他人を扶ける。すると、他人も自分を扶けてくれる。
勿論、扶けてもらうことを前提に扶けるというのもありかもしれませんが、史留暉はそんなこと考えていません。
『大』というのは自分より目上の人です。
自分が目上と思っている人です。
史留暉にとっては、自分よりも強い人、自分より知識がある人、自分の親族、は妹であろうと目上です。
賀旨の先頭を父が切り開き、兄が後ろに続き、母や姉妹がその後に隠れ、自分が最後尾を護る。自分より前にいる人、は自分が護るべき人。それは兄も父も同じです。
そうして、史留暉は生きてきたのです。
ただ、それ以外の部分に頭が回っていないので、ナール・サスや夕羅から観ると我が儘勝手に見えるのですね。
もうちょっと俺に折れてくれたっていいだろう。
夕羅の言葉は、なかなか届きません。
かわいそうな夕羅(笑)
一応、史留暉の中では、夕羅も『護る人』の列には入ってるのですが、夕羅はそんなこと望んでませんから、すれ違いまくってます。
夕羅の想いはいつになったら届くのかなぁ……と。書いていて、私も不思議に思います。
冒頭の写真は、正月のうちの玄関ドアを内側から撮ったものです。
しめ飾りの稲穂をついばむために小鳥が飛来していました。米が無くなるまでかなりうるさかったです。
去年まではそんなこと気付かなかったのですが、なんでしょうね。吉兆?(笑)